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地域に根ざした「地べた」からの運動を!
――相原龍彦さん(憲法擁護・非核平和を進める中野区民の会)
相原)中野区といいますと、教育委員の準公選、「非核平和宣言」、それから革新区長、という印象があったかと思いますが、こんにちでは違ってきています。
それはともかくとしまして、私はもともと電車の運転手でした。中野電車区の分会長を17年間ずっとやっていました。そういう関係でいろいろな地域の人たちと知り合いました。一般的には、17年間も分会長をやっていますと、だいたい支部から地方本部の役員に、あるいは議員になるというのも珍しくはないのですが、私の場合には、やはり地べたでやっているのもいいのかなと思いまして、今も鉄道退職者、現役の時の仲間と話をしたり忘年会をやったり、こういう運動をさせてもらっています。
私は、元来、本を読むのも大嫌いで勉強もしてないのですが、子どもの頃、貧乏だったこともあって反権力の気持ちはずいぶんありました。学校に行かれないのですよ。忙しいときには小学校も休みました。もちろん高等学校にも行けませんでした。お金もなかった。なぜ自分がこういう貧乏に生まれなきゃいけないのか。それが私の原点だともいえます。
いろいろ議論し、学びながら、幅広い運動を!
相原)さて、私が事務局をやっております「憲法擁護・非核平和を進める中野区民の会」についてお話しします。この会は、1991年2月17日に結成しました。それよりも三年くらい前からいろいろ準備をすすめまておりまして、最初は、「守る会」という名称でした。それが、いろいろ運動をしている中で「『守る会』では弱すぎる」ということでみなさんと議論して「進める会」になり、この会ができました。
当時はいろいろなことについて議論をしました。例えば、中野区で自衛隊の自動車などはいっさい走らせないとか、江古田に自衛隊があったのですが無線基地もだめだ、戦争状態になったって道路は使わせないとか、原子力発電所についてはどう考えるのかとか、本当にいろいろと議論しました。その中で、意見をまとめて、区に陳情をだしました。それが採決されて、1990年4月に「中野区における平和行政の基本に関する条例」ができました。そして、二億円を積み立てた基金もつくられました。
それから、私どもの会の運動ですが、会員は130名程度で、年一回、定期総会を開いています。それと、学習会を年に二、三回、昨年10月には、元山さんにお話をしていただきました。それから、駅頭行動、日帰りのバス旅行をずっと続けています。バス旅行は、非常に好評を博し、松代、東海村、足尾銅山、五日市、アウシュビッツなどなどに行きました。結構そういうのが専門的に好きな人がいて、計画を立ててくれています。必ず帰りには酒の工場に寄り、学んだり遊んだりしながらやってきています。それから、広島や長崎との交流、地域労組との交流もやってきました。
最近では、中野区でこういう運動をしてらっしゃるところと一緒になって運動をできないものかと、「思想・信条をこえて平和憲法を守り、核廃絶のために中野から大きな波を」という大変長い名前の会をつくり、先日、学習会をやりました。また、「新春のつどい」をついこのあいだやりましたが、これには地元のいろいろな文化人の方にも来ていただき、いろいろと教わりながら会の運動に生かしてきています。これからもみなさんに教わりながら中野区で一生懸命がんばっていきたいと思います。よろしくお願いします。(拍手)
横のつながりを大事にして、「声なき声」をすくい上げていく運動を!
――川田正美さん(民主主義と平和憲法を守る文京連絡会代表)
川田)私の職場のある文京区というのは、以前から民主勢力が強くてそれなりに伝統のある地区です。私がかかわっております平和委員会が戦後早くから発足したのも文京区です。
「民主主義と平和憲法を守る文京連絡会」(略称 文京連絡会)は、昨年八月に結成されたばかりの会です。まず、この会をつくるに至った経緯についてお話しします。
はじめにお話ししましたように、文京区というのは、民主勢力が強く、伝統のある地区ですが、横の連絡は弱いという印象を持っていました。そして、今から三年ほど前になりますが、当時、そもそも運動の広がりに限界を感じたところに加えて、ガイドライン法以下数々の法がいとも簡単に通ってしまった状況を間近に見まして、本当にこのままではどうしようもないな、しかし、情勢の割には運動が盛り上がってこないな、ということにいらだちを覚えまして、やはり横のつながりを大事にしないといけない、まずはすでにある既存の組織とどう横断的に手を結びあうか、ということが大事だと感じたわけです。
それから、これはいつも考えていることなのですが、なかなか声が表面化しない。六〇年安保の時に当時の岸首相は「私は声なき声を聞く」と言いましたが、まさに、この「声なき声」をどうすくい上げればいいのか、それをどうやって結集できるか、このことをいつも考えていたものですから、この機会に私が理事長をやっております平和委員会だけではなくて、他の団体とも手を組んで一回り大きな組織にしたいということと同時に、区民の方々がどのくらい平和を望んで戦争に反対している気持ちを持っているのか、そこをどうすくい上げていけるかということで会の準備を始めました。そして二年間準備をしまして、ようやく昨年8月、結成にこぎつけたわけです。
「声なき声」をどうすくい上げるか
区民をどう掘り起こしていくかが課題
川田)この二年間、準備をしておりまして、私もずいぶん勉強になりました。私も組合をやっていますが、リストラだ何だと、労働組合では平和の問題を組合の方針として掲げても、殆ど取り組めない。方針として掲げているといっても、後ろの方に掲げられている。それでも、あるだけまだ良い方だと、そういう状況になっています。そういうなかで、こういう課題でもって結集するということは、やはり平和委員会がワッとやらなくてはいけないんだと。そういうことを感じました。
それから、私も、長らく文京区でやっているのですが、区の中でどれだけ組織だったものがあるかということは実はあんまり知りませんでした。そこで有給休暇をとって、夏の暑い盛りに一所懸命、仲間と車で廻ったりして、こういう所にこういう組織があったのかと知り、勉強になりました。
そうして去年の夏に、ようやく「文京連絡会」を立ち上げたわけです。立ち上げたとたんに、例のテロ事件が起こって、急に忙しくなって、こういうときだからこそ、つくっておいて良かったと思いました。
ただ、つくりはしましたけれども、私の願っていた、区民をどれだけ掘り起こすか、そういうことがなかなかできていません。まず第一にやり方をどうするか、どうやったらそれを訴えられるか、街頭にでて訴えるとか、新聞に折り込みをするとか、掲示板をだすとか、いろいろありますけれども、はっきり言って手探り状態です。
いまは宣伝が大事
運動をどう広げていくかを一緒に考えよう
川田)今後の有事立法反対の具体的な取り組みにかんしては、有事立法学習会を3月19日に予定しています。それから、私は出版労連という、出版労働者の組織に入っていますが、平和問題ではなかなかまじめな組織で、平和共闘委員会というのをつくっています。そこが主催して3月7日に学習集会を行います。
それから、「6・9行動」、原爆を落とされた広島・長崎にちなんで、6と9の日に街頭で反核署名を行っています。三月六日に大塚駅頭でやりますが、文京区民にとどまらず結集する。今は宣伝がすごく大事だと思いますので、ぜひ合流していただければと思います。
くり返しになりますが、これからどういうふうに有事立法の問題も含めて運動を広げていくのかということが、声なき声をどこまですくい上げるかという事もからめて、今の課題です。みなさんと考えていきたいと思っています。(拍手)
戦後50年の後退戦をうち破っていくためには、自分に染み入っているものを自覚し、
のりこえていく努力が大切――片岡豊さん(日本国憲法をくらしに生かす会事務局長)
片岡)板橋で「日本国憲法をくらしに生かす会」という会をつくって、憲法のいろいろな勉強をやっています。私たちの会は、2000年5月3日に立ち上げたのですが、よくよく考えてみると、2000年5月3日にこういう会を立ち上げなければいけないということ、このこと自体が実は大変な問題なのではないかと思っています。と申しますのは、先ほど小澤先生から有事法制研究の経緯についてお話がありましたが、よくよくふり返ってみると、この問題について、われわれはある意味でずっと後退戦を強いられているんだなと改めて感じさせられます。一方、この間日本国憲法がどういう状況にあったかというと、ことにこの10年くらい、改憲の攻勢が圧倒的に強くなってきている。そういう中で立ち上げざるをえなかったということなのです。そこでいろいろ議論をするわけですが、その中で、極めて個人的に感じている問題を二点お話ししたいと思います。これはある意味で僕自身の悩みでもあるわけですが、後ほどみなさんからいろいろなサジェスチョンをいただければと思います。
自分自身が日本国憲法をどれだけ実態化しているのか
片岡)憲法についての議論は会でもやりますが、職業柄(大学教員)学生たちに近代文学を語るということをやっておりまして、学生たちとも授業の合間に憲法の問題だとか、テロの問題だとか、そんな話をするんですね。そういう中で、改めて自分自身で考えさせられることがあるわけなんです。きょうのつどいのタイトルに「改憲ではなく、憲法の実行を!」とありますが、果たして僕自身が日本国憲法をどれだけ実態化しているんだろうかということを、ふと考えてしまうのです。
ふり返ってみますと、例えば、僕が少年期、小学校時代どうだったのだろうと思い起こしてみます。1950年代から60年代にかけてですけれども、60年安保闘争の前後ですね。この頃小学生時代を過ごしているのですが、そのときに、例えば、あの歌、「原爆許すまじ」を音楽の授業で習いました。一方で、卒業式やらで、「日の丸・君が代」も同じ小学校でやっていました。そういう環境の中でこども時代を過ごしているのです。当時、日本国憲法、教育基本法、戦後の民主主義教育の中で、家庭ではどういう現状があるかというと、圧倒的に家族主義イデオロギーが強く支配している。僕の家庭のみならず、もう少し輪を広げてみてもそうした実態がいっぱいあるわけです。そのような経験を幼少時にしているわけです。
今、憲法の問題についていろいろ動いている僕の中にも、実はその当時植えつけられている、何かがある。それを自ら払拭しない限り、なかなか本当の力にはなっていかないのではないかと、そのようなことを学生たちと話しをしていて、ふと感じたりします。つまりは戦後の民主教育の中にも、戦前の大日本帝国憲法下における価値観といったものが静かに流れていて、戦後生まれのわれわれの中にも、それがどこか染みついているのではないかと思うのです。それが一点です。
自分に染み入っているものを自覚し、のりこえることが大切
片岡)それともう一つ、これに関連することですが、例えば先ほどから「憲法擁護」という言葉がでておりました。あるいは、「護憲」という言葉が一般に使われます。ところが僕は、なかなか「護憲」という言葉を自らの言葉として口に出すことが、しにくいのです。
それはなぜかと言いますと、去年の暮れ、ある赤ん坊が生まれてちょっとした騒ぎになりましたが、天皇制の問題とからんでくるわけです。「象徴天皇制」というかたちがあるわけですが、この「象徴天皇制」が人々の意識の中にどのように入り込んでいるのかということを考えてしまうわけです。若い人たちは「天皇なんか関係ないよ」というようなことを表向きは言ったりもしますが、どこかで、「天皇制タブー」、そういうものに取り込まれているのではないか。しかもそれは、このような運動をやっているわれわれ、少なくとも僕の意識の中にも、例えば天皇制の問題を議論するということ、これ自体が、ある種、勇気を出さなければいけないというような側面があるのではないかと感じています。
つまり、僕は1949年生まれで、今朝のテレビで浅間山荘事件から30年ということを取りあげており、僕の世代としては、いろいろ考えてしまうこの頃なのですが、そのような戦後生まれの、戦後民主主義教育を受けてきたはずの僕自身にも、そういう何かが染み入っているのではないかと思うわけです。それは、僕だけの問題ではなくて、僕の世代、あるいはもっと若い人たちの、あるいは、僕に教わった学生たちにも僕を通じてなんらかのかたちで変に染み入っているかもしれない。そういったものをそれぞれが自覚し、のりこえる努力をしていかないと、この戦後50年の後退戦をうち破っていくことができないのではないかと、今、切実に考えているわけです。
ぜひ、みなさんのご意見を伺わせていただければ幸いです。
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