いまこそ有事関連三法案を廃案に!
「有事法制と憲法改悪に反対するつどい part2全発言

(2002年9月29日 文京区民センター)


  主催  :民主主義と平和憲法を守る文京連絡会
       日本国憲法をくらしに生かす会
       憲法擁護・非核平和を進める中野区民の会
       改憲とあらゆる戦争法に反対する市民ネットワーク21

  協賛 :週刊金曜日
 
※以下はつどいにおいての全発言を記載したものです。

 

パネルディスカッション
 
1.パネリストからの問題提起
 <続き>

平和憲法が描くグランド・デザインの実現を
――河上暁弘さん
(中央大学人文科学研究所客員研究員・憲法学)

河上)
みなさん、こんにちは。
有事法制についてはこの後もお話しをする機会がありますでしょうし、私の見解は『有事法制Q&A』の第一部にかなり詳しく書いておりますので参照して下さい。

 これまで有事法制問題を考える際に非常に詳細な批判をやってきたつもりなのですが、憲法の平和原則を大事に思う側が、例えば日本のこれからのあり方や世界のあり方について、10年、あるいは50年、100年単位でグランド・デザインとしてもっていないとやはり魅力がない。でてきたものにたいして批判するという後追い的な対処療法ではいけないのではないかと思っています。ここでは、この問題について少しお話をしてみたいと思います。

「構造改革」「政治改革」――無意味なスローガンに惑わされてはならない

河上)
現在、ことさら「有事」とか「危機」ということが語られています。それは昨今の北朝鮮関係の問題もそうです。確かにある意味いまの状況というのは「有事」なんですね。そう、経済の方は完全に「有事」です。いま世界経済や日本経済は一秒たりとも猶予がない状態です。
日本ではその最大の問題の一つが不良債権問題ですが、小泉政権ではまったく手がつけられません。不良債権問題には、もはや短期集中的に大量の公的資金をつぎこむことが不可避とされていますが、不良債権の正確な総額すら判明しない現在の状況では、まず、銀行の経営者の責任をきちんと問い、その粉飾決済をずっと見逃してきた大蔵省の責任も問わないと根本の問題が解決しないからです。

 ところが、金融の担当大臣は大蔵OBの柳沢さんです。大蔵省の責任を問うといっても無理ですね。
ですから責任をとらないかたちでいまの政治が動いている。
そのなかで、具体的で現場に有効な政策を何でもやらなくてはならないこの時代に、この無責任体制のもとで何が行われるかというと、あたかも大きな特効薬であるかのようなスローガンだけが無意味にくり返されるだけです。ここぞとばかりに「政治改革」や「構造改革」などが叫ばれ、また、何かいまの問題は憲法を変えればすべて解決するかのように「憲法改正」のスローガンまでくり返される。戦争責任問題以来の日本の政治の根本原因と責任者の責任を問わないあり方が、今の不良債権問題、経済問題、教育問題などすべてに影響を及ぼしていると私は思います。

 私は平和憲法のグランド・デザインといいましたが、未来志向でものを考えるためには、過去と向き合うことなしに、現在、そして未来をきり拓くことはできないのではないかと思います。政府の責任の問題に加えて、いまの政府を支えているのは、いまのわれわれ国民、主権者の責任でもあるわけですから、そういった点を考えた上で過去と向き合い、そして現在を選択し、未来を選択する必要がある。弓削達先生の言葉を使えば「歴史的現在」をわれわれは生きているわけですから、現在の地点から未来の選択を行うためにも過去と向き合うことこそ必要です。

 そうすると、いま問われるべきは戦争責任以来の日本の政治のあり方であって、例えば憲法や教育基本法などを変えることが問題の解決ではないことが明らかだと思います。あくまでも必要なのは、無意味な「スローガン」ではなくて、現場での地道な対策と努力の積み重ねだからです。

政府のいう「公共の福祉」は「軍事的公共性」そのもの。
            軍事目的の人権制限は絶対に認められない


河上)

いまの危機的な状況の中でのひとつの問題が、有事法制であると思います。
いくつかの論点がありますが、軍事目的であれば人権制限はやむをえないのだという福田康夫官房長官の発言に、この有事法制の本質的な問題がでてきたと思います。内心の自由は実際無制約な自由だが、それが外的な行動や行為になった時には「公共の福祉」で制限されるのはやむをえないということを論拠として、いよい有事法制による軍事目的での人権制限を行うという問題がでてきています。

 確かに「内心の自由は無制約だが、外的な行動には制約がある」というのは、人権論として、ある意味その通りです。
つまり、他者の人権を制限したり侵害するような自由の行使はあってはいけませんから、その意味では人権相互間の調整が必要な場合があるので、それを「公共の福祉」と言ってもいいし、もっとその意味内容を他者の人権との調整と考えてみてもいい。しかし、いま問題になっているのはそういうレベルの人権制約(特に人権の内在的制約)ではなくて、「軍事的な公共性」、あるいは軍事目的で人権を制限するという論理であって、これが、あからさまに政府から唱えられているということです。しかし、憲法前文の平和的生存権、それから九条の戦争放棄、戦力の不保持の規定からいっても、「軍事的な公共性」という論理は日本国憲法のもとでは完全に否定されています。ですから、軍事目的で人権を制限できるという解釈は成り立つ余地がありません。このように有事法制問題は、今や、「備えあれば憂いなし」という抽象的な話ではなくて、ギリギリの場面で人権や平和が守られるかどうかという具体的な問題にいよいよなってきました。

日本国憲法が描くグランド・デザインとは?

河上)
その上で日本国憲法が、どういう世界のあり方や日本のあり方を示しているかを考えた方がいいと思うのですが、私は、日本国憲法は非武装・非軍事平和主義であると同時に、非暴力平和主義でもあると思っています。「テロ問題」をひとつとっても、例えば「追いつめられたら、暴力やテロを行っても仕方ないではないか」という議論は心情的には大変理解できる議論なのですが、日本国憲法の立場はそれをも否定していると私は考えます。日本国憲法は「人間の尊厳」を前提にした上で、憲法十三条や二十四条で「個人の尊重」、「個人の尊厳」を明らかにしています。まず個人というものがあって、しかる後にそれが討論と参加を通じて主権者としての国民というかたちで意思を形成し、さらに、国際社会に開いていく。個人、国民、国際社会、というふうな段階構造をとります。

 そして、日本国憲法の前文を読みますと、主語は全部「国民」なんですね。「国家」ではありません。これは英語では、peopleですから、本当はそういう言い方が良いのですが、この国民が「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と憲法前文にありますが、これは「われらの安全と生存」です。国家の安全と生存ではない。われら国民、peopleの安全と生存を実現するためには「平和を愛する諸国民」と「公正と信義」のネットワークをつくらないといけない。だから、戦後責任などを果たさずに信頼のネットワークはつくれません。また人様に武器を向けることは「人間の尊厳」「個人の尊厳」の完全な否定になるわけですから、日本国憲法を持つ日本国民としては、戦争や武力行使という形で人様に武器を向けることなどとても考えられることではないということを強調しておきたいと思います。

 また、日本国憲法の前文では同時に、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と言っています。「恐怖」は戦争や独裁政治などの恐怖、「欠乏」は飢餓や貧困などですが、そうしたものから免かれ平和のうちに生きる権利を、全世界の国民が「ひとしく」保障されなくてはいけない。そういうことを主権者国民として確認をした。その平和主義というものは、まさに個人から主権者としての国民、そして国際社会に開かれた平和主義を、非軍事・非暴力の立場から明らかにしたものだと思います。

 そういう平和主義をもつ日本は、さまざまな国際紛争にたいしてどういう紛争解決システムを政策論としてつくっていくかということを考えることが大切です。結論だけ言いますと、戦争の違法化・非合法化(outlawry of war)を行った上で「法と裁判」による紛争解決制度を確立するべきです。それと同時に、制度論だけではなく、NGOをはじめとした世界の人々による紛争への「非暴力介入」を、主体である市民がいかにできるかということを含めた総合的・包括的・体系的・民主的な紛争解決システムを、全世界の国民の平和的生存権を保障するというシステムのなかでどう構築するかが求められていると思います。

 

農村と農民、食を破壊する有事法制を許してはいけない
          ――大野和興さん
(農業ジャーナリスト)

大野)
大野です。皇紀2600年と言っても若い人は分からないでしょうが、1940年、15年戦争のまっただ中ですが、四国山脈の山村で生まれまして、40年村歩きを仕事にしてきました。いま埼玉県の秩父市に住んでいます。

またたくまに全国に広がった「百姓宣言

大野)
有事法制がでてきたときに、これは大変なことになると思いました。
そこで、「良心的兵役拒否」という言葉がありますが、「良心的軍役拒否」をやって一人一人が有事法制を拒否しなければならないと思いました。私のよって立つところは村と農と農民ですので、そこでそういう試みをしたいと思い「戦争に食料と土地・水は渡さない百姓宣言」を書きまして、私の連れ合いも同じ仕事をずっとしており村にずいぶん友人がいますので、二人の友人に発送しました。最初は知っている農民のなかで賛同してくれそうな百数十人を選んで、百人集まれば公にしようと思っていました。ところが、ファックスやメールや手紙で広がり、あっという間に五百人を超える人が賛同してくれました。九州の人からは「やっと連絡がついた。ファックスにファックスにファックスを重ねてきたのでやっと電話番号だけ読めたのだがメールが読めない」と電話がありました。このように発信者が知らないあいだに全国を駆けめぐったわけです。

戦中の国家総動員体制のもとで、農村・農民はいかに破壊されたか


大野)
私は、有事法制は軍事のグローバル化だと思います。
ブッシュの「新しい戦争」体制に、日本がどう国家として協力するかということで有事法制がでてきたのであろうと思います。
かたちとしては戦前の国家総動員法そのものです。
では、国家総動員法のもとで、銃後の農村が一体どうなっていたか。

食料は重要な軍事物資になりますから、お蚕の桑は引き抜かれ、花をつくっていると「非国民」と言われ、馬がやっと一人前になったら軍馬でもっていかれました。農業生産統制令(1943年)にもとづいて青森のある村にたいしては「リンゴ1000町歩を伐採しろ」という命令がでました。リンゴの袋かけと田んぼの草取りの時期が丁度重なって、ある村では袋かけを重視してやったところ、「大事な米をないがしろにした」ということで百姓30数人が検挙されました。

 もう一つは、農村は銃後であると同時に前線でありました。農民が兵士として次々と召集されていった。
農民兵士は被害者であると同時に加害者であったわけです。
私の友人で、今回の「宣言」に賛同してくれた山形の「置賜百姓交流会」という農民グループがあります。彼らは80年代に「2度と戦争のために銃をとらない農民集会」を開催しました。集落をまわりドキュメンタリー映画『侵略』を上映しながら話し合いました。部落の鼻つまみ者でアル中のようになった親爺がいたのですが、彼も上映会に来ました。
村のみんなは「また、こいつにくだをまかれるな」と敬遠していたのですが、上映会が終わったらその親爺がポロポロ泣きだしたのです。「なぜ俺がこんなに酒を飲むようになったのか」と。

彼は、中国戦線で人を銃剣で刺しているわけです。その手の感触がいつも手に残っている。夜中にワーッと叫んで起きあがることがたびたびある。夜もゆっくり眠ったことはない。何かをすると手の感触がよみがえってくる、それを忘れたいために酒を飲んだのだ、と彼は体験を語り始めた。
彼は、自分自身を戦争のために破壊されたのですね。被害者であり、加害者であり、そして自身さえ破壊されたということを、かつての十五年戦争は農民の中に残した。このことをきちんと伝えて、新たな軍役拒否を宣言する、それが「百姓宣言」の狙いです。

農と食の破壊を許してはいけない

大野)
いま日本の食糧自給率はカロリーベースで40パーセント、基本食料である穀物は27パーセントです。
北朝鮮は特に95年以降飢餓だと言われていますが、それでも国連や韓国、あるいは北朝鮮政府の発表した数字をみると自給率は50パーセント以上あります。ここでは何十万人、何百万人が死んだという情報がありますがそれは買う金が無かっただけの話です。日本に買う金がなければ、おそらく数百万人は死ぬだろう。この問題を放置して有事体制も何もないと思います。

農林水産省は、何年か前に輸入食料がまったく来なくなったらどうなるかというシミュレーションをだしましたが、大人で一日1700キロカロリーになるそうです。つまり敗戦直後の食料水準になるわけです。
こう言ったらある女性が「これはダイエットにちょうどいい数字ですね」と言ったのですが確かにそうです。しかもそれは、いま花や野菜をつくっている畑やゴルフ場などをすべてイモ畑に変えた上での数字なのです。このことは百姓にとっては、つくる自由や作付けの自由という基本的な権利を完全に奪うことです。同時にそれは人々がものを食べること、あるいは食べることを選択する自由そのものを奪うことです。農と食ということだけから見ても、そういうことがいま考えられると思います。そういう思いを込めていろいろやっています。


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