<続き>
基調講演
「戦争と平和の転換点で平和憲法を見直す」
――三輪隆さん(埼玉大学教員・市民と憲法研究者をむすぶ憲法問題Web代表)
三輪)
大きく二点、お話します。
一つは、いま新しいかたちの戦争が始まっており、それにすでに日本は加担しているわけですが、その問題性について、そして二つには、新しい状況の中で憲法九条を守る意味をもう一度考え直すことです。これまでの憲法擁護運動はともすると〃戦争に巻き込まれたくない〃〃私たちは戦争の被害者になりたくない〃という発想の運動だったと思います。それは誰もが持つ当たり前の感情ですが、しかしそこにとどまっているだけでは限界がある。本当に平和を願うのならば被害者的平和意識をこえて、現代の武力紛争の根底にある世界の貧困と格差、そのうえになりたっている私たちの「豊かな」生活のありようを変えていかなくてはならない。そして憲法九条はそうした世界のあり方を変えていく上でも貴重な手がかりとなることについてお話ししたいと思います。
多大な死者と被害をもたらす米の対イラク戦争
三輪)
2003年2月の上旬、中旬くらいまでにアメリカはイラク攻撃を始めようとしており、その中で日本はイージス艦を出そうとしています。戦争が始まれば、最悪の場合、死者だけでも390万人にのぼるとアメリカの民間の医療団体が推計を出しています。このとんでもない数にまず注意していただきたい。
アフガニスタン攻撃でも、いわゆる「誤爆」によって――そんなものが許されるとはちっとも思いませんが――3800人以上の方が殺されていることがニューハンプシャー大学のマーク・ヘロルドさんによって発表されています。それ以外に、タリバンやアルカーイダの兵士たちは何万人殺されているのかわかりません。
12月6日に「インターナショナル・ヘラルドトリビューン」で報道されていた全世界44カ国、3万8千人に行った世論調査が載っています。資料(『読売新聞』の記事及び「U.S.
Image Slips」と題した表1)を見てください。
アメリカにたいするイメージが落ちているという結果が出ています。いわゆるイスラム圏では軒並み落ちています。調査団体にはオルブライト前米国務長官もからんでいますが、彼女はこの結果を見て「このまま従来の中東政策を続けるわけにはいかない。もっと考え直さないといけない」と言ったそうです。オルブライトにしてその程度の認識しかなかったのだと知って私は愕然としました。一体、彼女は第二次世界大戦後アメリカが世界各国から好かれる国であり続けていたと思っていたのでしょうか。
あるいは資料(表2)にある世論調査の表を見てください。「Suicide
Bombing In Defense of Islam」ムスリムの人々のいわゆる「自爆テロ」についての世論調査です。それを肯定する人が決して多いわけではないのですが、否定する人の方が多い国でも20パーセント以上の人が「理解できる」と肯定しています。この世論の背景には、イスラエルによる非道なパレスチナ攻撃があります。アフガニスタンにおいて「誤爆」で四千人近い人が殺されている。湾岸戦争後、劣化ウラン弾などの放射線障害で五十万〜百万人が苦しんでおり、亡くなった方もたくさんいます。こうしたアメリカとイスラエルによる理不尽極まりない一方的殺戮が繰り返されていることが表の数字に反映されていると思います。そして今度はバクダッドということになれば市街戦になって、少なく見積もっても数万人にのぼる人が殺されるかもしれない。そうしたとき、いまや十億人を越えるというイスラム圏の人々の間に「自爆テロ」に訴えても一矢報いたいという絶望的な思いが高まり、中にはそれを実行するという人が一万人に一人、あるいは十万人に一人という割合ででも増えることは殆ど確実でしょう。
その中で、日本はイージス艦を出そうとしています。アメリカがイラクを攻撃するとき、その周辺を日本のイージス艦がカバーしてアメリカの軍事的負担を減らすというわけです。いまでもアフガニスタン攻撃で、米軍が使用する燃料のうちの四十パーセントを自衛隊が補給していますが、これは自衛隊の年間使用量に相当します。どこで、どんなかたちで米軍を「後方支援」しているのかは軍事秘密として私たちはチェックできません。イージス艦が派遣されても、それがどこで活動するかもチェックできないでしょう。私たちは今、アメリカの一方的殺戮行為にしっかりと協力している状態におかれているわけです。
米の石油権益のための「対テロ戦争」、イラク攻撃
三輪)
このような中でイラク攻撃が始まれば、フセインはアラブの大義を掴むためにイスラエルに攻撃をしかけ、シャロンは好機とばかりにパレスチナの人々のヨルダンへの追い出しにかかることも予想されます。仮にフセイン政権が倒されたとしても、イラク国内が政治的に安定する見通しは立っていませんから、イラク攻撃は中東全域の何十年にも及ぶ新しい武力紛争の口火を切ることにもなりかねません。
このように大変な事態が起きることが予想されるにもかかわらず、ブッシュ政権はしゃにむに戦争を始めようとしています。それはなぜか。
次のような理解があるようです。一つはブッシュ政権のトップの連中は、ロッキードやボーイング等々の軍需産業や、ハリーバートン等々の石油エネルギー業界と密接な利権関係を持っているからだというものです。アメリカのエネルギー消費見通しについてのチェイニー報告(2001年5月)によると、アメリカは現在、石油の全消費量の52パーセントを輸入している。2020年になると全消費量の66パーセントを輸入しなくてはいけなくなるそうです。しかも全体の消費量が増えるから、輸入量もいまの60パーセント分をさらに増やさなくてはいけない。そのためには、一つには安定した産出量と設備を持つ中東地域をおさえること、二つ目には中東以外のカスピ海や中南米などからも採れるように目配りしなければならないと報告は言っています。
アメリカ政府は「テロとの戦争」などと言っていますが、米軍がどこに展開しているのかをみれば、全部石油の利権がからんでいることが分かります。アメリカは世界一の石油消費国です。アメリカ合衆国だけで全世界の消費量の23パーセントを占めています(2000年)。ところで、原油の埋蔵量は、世界平均ではあと44年くらいもつらしいのですが、アメリカの場合はあと七年です(98年末段階)。それにたいしてイラクやクウェートは、あと130年から140年採掘できると言われています。ご存知のように、アメリカは日本と同じようにエネルギーの大部分を石油に依存し、「京都議定書」の批准をしなかったことにあらわれているように一人あたりの消費量も高い国です。ですから、「テロとの戦争」を口実にしながら、石油利権に絡んだ地域に暴力的に介入していこうとしているのだと考えられます。
アメリカの戦略を背景にして出てきた有事法制
三輪)
レジュメの1ページ目は、有事関連三法案が出る背景を、アメリカの冷戦以降の戦略との関係で整理したメモです。冷戦以前のアメリカの戦略と冷戦以降の戦略は、ソ連という敵がなくなったことで大きな変化はありますが、変わっていない点もあります。つまり、70億にもなろうという世界の人口のうち、たかだか4パーセントのアメリカに、エネルギーの23パーセント、富の23パーセントが集中している。「この不平等を維持できるような国際関係を作り出すこと」、ここにアメリカの対外政策の目標があるということを48年2月にジョージ・ケナンが言っています。彼は対ソ封じ込め政策の生みの親です。そして半世紀後、97年9月の国連でクリントンは、こうしたアメリカの特権的地位を保障することになっているルール――それは新自由主義的な市場経済秩序とでも言うべきものでしょうが――にたいする挑戦者を孤立させることが21世紀の国際関係の基礎だといっているのです
ソ連崩壊によって、アメリカはソ連という大国にたいする抑止や封じ込めとに力を割く必要はなくなりました。しかし、米国はソ連なき世界での多国間協調の道ではなく、この先も軍事力の圧倒的な優越性を確保する方向をとってきました。対ソ核抑止を転換し、ソ連の周辺や、国家を相手にした「二つの正面」――冷戦時だとヨーロッパと北東アジア――に大軍を配置するのではなく、世界のあらゆる地域で、いかなる「脅威」にも対応できるようにするという方向にまずは軍事戦略を変えました。その「脅威」の中身は、当初は「中東地域と北東アジアにおける不安定」と言われており、あくまでも国家を主体とした「脅威」を考えていたようです。これが90年代の半ばくらいまでです。
「日米防衛協力の指針」(新ガイドライン)や、それを背景として出てくる有事立法もその文脈の中で要請されてきました。というのは、地理的には、日本はアメリカのほとんど地球の裏側に位置し、中国・朝鮮半島にも近い。また米軍が中東地域や北東アジアに展開しようとして太平洋を渡ったとっかかりにある。そして、産業的基盤も抜群で保守政権の支配も安定しており、「思いやり予算」のおかげでアメリカ本土より安上がりに基地を維持できる。その中で日本がアメリカの軍事行動をサポートできる体制になっていなければ、日本に基地をおく意味はないに等しくなりますから、日本に有事法制を要請してくるのは当然です。
先制核攻撃も選択肢に入れているアメリカには、国連のタガがはまらない
三輪)
レジュメの「2.〃世界の警察官〃であることも止めたアメリカの軍事戦略」のところを見てください。とりわけこの2〜3年、特に9月11日以降はっきりしてきたのは、アメリカは単にこうした「脅威」に対応するというだけではなく、あからさまに先制攻撃を含む選択肢を用意し、その中に核使用も含めるという点です。
これは、いまの世界の法的な枠組みからすると大変な問題を持っています。国連は世界規模の集団安全保障の仕組みとして発足しました。それは、そこに入ったメンバーは勝手に軍事行動をしてはいけない、そのメンバーにたいする軍事行動が行われた場合には、集団で対応する、その場合に初めて軍事行動が選択肢にのぼるという仕組みです。ですから勝手に動くことはできない。これは国連憲章第二条四項に出てきます。では国連としてどう動くのかというと、すべて国連安全保障理事会が決める。そのもとに制裁等をどうするかを決めます。
加盟国が独自に軍事力を行使できるのは、武力攻撃が発生しているのだがまだ安保理事会が動かない、「安全保障理事会が必要な措置を取るまでの間」に個別的または集団的な自衛権の行使として例外的に認められているに過ぎません(五十一条)。ところが先制攻撃となると、それは安全保障理事会が握っている集団安全保障のための措置を待たない武力行使であるどころか、例外的に五十一条で認められている自衛権発動の前提要件である、相手側から武力攻撃を受けたということもなしに先ずこちらから武力攻撃をしかけるということですから、これは国連の集団的安全保障体制の基礎にある二条四項の武力行使禁止原則を真っ向から踏みにじることになります。アメリカ政府は先制攻撃を正当化するために次のような趣旨のことを言っています。「アメリカは世界の軍事力の四割近く持っている。つまり第二位から第十五位までの全国家の軍事力を合わせた以上の力を持っている。つまりガリバーと小人という関係だ。ガリバーがどうするかということをしっかり決めないで、小人たちがどう動くかというばかりでは、実際の世界の安全保障はできないではないか。ガリバーには特権的な位置が与えられている。その中で国連安全保障理事会が大国一致原則で縛りをかけているものをアメリカは変える必要がある」と。
そして、アメリカが最初に動こうとしたのがアフガニスタンでした。その場合、国連はアメリカにたいして半分だけタガをはめましたが、事実上はまっていませんね。国連は軍事制圧した後の治安維持というところで出てきたにすぎません。今度のイラクの場合は少しタガがかかりました。国連決議1441があがって査察が行われており、問題があった場合でも、もう一度安保理事会にかけることになっています。
しかし、アメリカはこれまでさまざまな文書をでっち上げて攻撃をしかけてきました。コソボ紛争の時、パリ郊外のランブイエでの交渉の最終段階で、アメリカは次のような文書を出したそうです。「ユーゴスラビア全土にアメリカを含むNATO加盟諸国が入った監視団が展開するのを認めよ」と、最初からユーゴスラビア政府が飲むはずのないものを要求して交渉を破綻させて攻撃に踏みきりました。似たようなことを、アメリカはイラク攻撃の前に行うかもしれません。だからアラブ諸国はイラクにたいして、あんな屈辱的な査察でも「我慢して受け入れろ」と言うのです。
「アメリカは唯一の世界の警察官として振る舞っている」という言い方があります。警察官ならば守るべき指針がありますが、アメリカにはそれがない。これまでの国際法が警察行動の基準としていた指針を取っ払っています。この点に注目していただきたいのでレジュメに「〃世界の警察官〃であることも止めたアメリカの軍事戦略」とふれました。
国連決議があがればイラク攻撃はしかたがないとはならない
三輪)
では、国連決議が得られたから攻撃していいのか。国連安保理事会の常任理事国五カ国が賛成したら攻撃が始まるという可能性がまだ残されているわけです。査察の結果こういう問題が出てきた。どうするかというのでもう一回安保理事会にかけ他国が検証しようもない「証拠」を持ち出し、軍事的な措置もやむなし、とお墨付きをとって攻撃する、というシナリオだってあり得るわけです。それだったら、しかたがないのでしょうか? そういうことはないと思います。しかし、いまの国連のシステムはそういう限界があります。
国連安保理事会の常任理事国は、アメリカ、ロシア、フランス、中国、そしてイギリスです。いまのところフランスと中国、ロシアがアメリカを引っ張っていく格好をとっていますが、フランスにしても例えば、資料(表3)を見てください。アメリカが軍事攻撃することをどう説明するか。サダム・フセインが脅威だから、そしてイラクの石油をコントロールしたいから、というのがあってアメリカの場合は67パーセントの人が「サダム・フセインが脅威だから」と無邪気に思っているのです。
イギリスでは45パーセントと44パーセントと半々です。フランスの場合は、75パーセントの人が「どうせ石油が欲しいんだろ」と見ているわけです。ところが下を見てください。サダム・フセインを倒すことに賛成か反対かというと、フランスの場合33パーセントの人が賛成なのです。75パーセントの人がどうせ石油目当てだと思いながらも、必ずしもその人たちが反対するわけではありません。フランスもイラクの石油に権益を持っていることがこの調査に投影されていると思います。そういう限界を持っているのです。フランスやロシアがイラクに持っている石油権益をフセイン後にも保障するとか、中国も棄権にまわらざるを得ないような決議をアメリカが用意し、それを安保理が通すという可能性だってあるわけです。そういう国連の「歯止め」でしかないのです。
私たちはそれを守れというだけで良いのでしょうか? そうではないと思います。安保理が、平和的手段を基本とし優先する国連本来の集団的安全保障の中心システムとして機能し、それが軍事大国の道具にならないようにするには、全世界の民衆の下からの平和運動が各国政府を突き動かすまでに大きくなる必要があります。
前半に申し上げたかったことは、いまアメリカは自国の権益を守るためには先制攻撃をやるという新しい戦争態勢に入っていることです。ここで最後に付け加えたいのは、この先制攻撃において、場合によっては核兵器も使うことが公然と宣言されていることです。
「ブッシュ・ドクトリン」といわれる9月20日の国家安全保障戦略では、「脅威が米国の国境に達するよりも前に破壊する」「単独行動をためらわず、先制する形で自衛権を行使する」「脅威が現実となる前に抑止し、防御する」、こういうことが公然と言われています。3月にリークされた核戦力態勢見直し報告では、「新しい、使える核兵器を開発し、2007年までにそれを実現する」とも言っています。ビンラディンやフセインが、山奥のどんな洞窟、どんなに堅固な地下防空壕に隠れても確実に撃滅するためには核使用も辞さないというのです。そういう中で、イラク攻撃が始まろうとしています。
これまでの運動の限界は何か?それをどうのりこえていくのか?
三輪)
次に、これまで憲法九条についてどういうとらえ方があり、そこにどういう問題点があったか、単に被害者という発想の運動ではいけないことについてお話ししたいと思います。
第一に、高さんから加藤典洋さんのお話がありましたが、加藤さんは「押しつけ憲法だったにもかかわらず、自分たちがかちとったかのように言っているから欺瞞だ」と言いたいのだと思います。私はそれは当たっている面もあると思います。残念ながら、憲法九条は平和を希求する日本民衆の運動が自らかちとったものではありません。平和を願う気持ちはあったとしても、それはいわゆる従軍慰安婦の問題が放置されつづけたように、自らの戦争責任を踏まえた自覚的な運動にはなりませんでした。「幣原が奮闘したことが九条に反映されているのだ」という意見は間違っています。幣原がやりたかったのは天皇を残すための九条です。彼は、戦争放棄とは言っても戦力不保持とは言っていません。また、九条は天皇条項との取り引きだとも言われます。しかし、アメリカ政府、GHQは天皇を残すつもりでした。なぜなら、日本の中に天皇制廃止の運動が起こっていないのに廃止すると占領する上でのコストがかかりすぎる。だから天皇制を残したのです。そして天皇の制度を残すことについての他の連合国からの反対は強いものではありませんでした。九条が天皇存続とのバーターだというのは、当時の日本の支配層の思い込みとすらいえます。
では、なぜ九条がつくられたのか。当時アメリカは、ドイツと日本を非武装化することを考えていました。両国の非武装化・非軍事化は戦争の最高目的でした。日本については1972年までアメリカ、イギリス、中国、ソ連の共同監視のもとに武装解除し監視しつづけるという条約を提案しようとしていました。しかし、その構想が実現するとGHQと並んでソ連が入った日本非武装化監視委員会が東京に置かれるようになってしまいます。大統領になりたかったマッカーサーは、日本非武装化という占領の最高目標の手柄を他のところに持っていかれたくない。それならば憲法にこれを規定してしまって日本自らが非武装化する格好にするのがよいと考えたのではないか。46年2月に、突如それまでの改憲論議にはなかった平和条項が入ってくるのはこうした事情からだと私は思います。
戦後の反戦運動の中で九条を自分のものにした日本の民衆
三輪)
では、日本の民衆運動は九条について主体的な関わりがなかったかというとそれは違います。朝鮮戦争の頃から、アメリカ自身が九条を捨て去り、日本を再軍備させ、日本の「人的資源(いわゆる兵隊)」や工業資源等々を使う方向に転じてから、日本では民衆が反戦運動を起こしていきました。その中で、初めて世論調査の上でも九条にたいする支持が不支持よりも上回るようになりました。ここで初めて日本の民衆運動は九条を自分たちのものにしたのだと思います。多くの民衆が「平和四原則」(再軍備反対、軍事基地反対、軍事同盟反対、全面講和)を支持し、この要求の基礎づけとして九条をいわば再発見したのです。この運動なしに九条は現在ありえないということを、加藤典洋さんの議論は忘れていると思います。
およそ法というものは条文さえあれば自動的に実現されるというものではありません。法文は紙の上のインクのシミ、あるいはハムラビ法典でいえば石の上に刻まれた傷跡でしかないのであって、それを人々が実際に追求しなければそれは現実のものになっていきません。しかも厄介なことには、日本国憲法の場合には、憲法にこそ自らの正統性の根拠をおくべき政権担当者がこれにたいしてそっぽを向く、それどころか真っ向から敵対している状況の下でそれを現実化させるということですから、これは大変なことです。
これまで平和憲法を実現させようという運動は随分に頑張ってきましたが、今に至るも議席の上で多数をとることができませんでした。平和憲法に敵対する勢力が多数をとり、日米安保条約が結ばれ、自衛隊がつくられるというかたちで再軍備がすすんでいきました。しかし、だからといって憲法の歯止めがまったくかけられなかったわけではありません。もし、「自衛のため」の軍事力を持つことが合憲であるとするならば、論理的にいえば有事法制があるのも当然です。海外派兵も、航空母艦やミサイルを保有することも、「自衛のため」と説明できるはずです。しかしそれはできませんでした。なぜか。言うまでもなく平和憲法の実現を求め軍事化に反対する運動があったからです。加藤さんの議論はそういうことを全く無視しています。五〇年代末から六〇年代初めにかけて、明文改憲を提案しようという第一次改憲運動が盛り上がりを見せます。しかしそれがダメになったあと、自由民主党は政治綱領の中に「憲法改正」を掲げつづけています。しかし一度として選挙の主要な争点に「憲法改正」を主張することはできませんでした。そんなことを言えば票が逃げていく、票にならないという現実がありました。それは憲法を支持し、その方向で日本の安全や平和を実現していこうという力強い国民の運動があったからにほかなりません。
巻き込まれ拒否論、被害者的発想の克服を
三輪)
しかしながら、この運動は自分たちの力できりひらいたものではありますが、そこには大きな限界もありました。それは一言でいうと、被害者的な発想の平和主義の問題です。「二十四の瞳」というすぐれた作品がありますが、この作品について早くから指摘されている問題があります。それは、「あの子たちは帰ってこなかった」、でも「あの子たち」に代表される日本の兵士たちが戦場で何をやっていたのかをきちんと私たちは問うたのか、という問題です。その後、戦後復興の過程で賠償が問題になりました。
ところがそこでも、例えば典型的には、フィリピンと講和するときに当時平和運動の先頭に立っていた社会党(当時)がなんと賠償に反対するということがありました。今度の「平壌宣言」の中でも賠償の問題は日韓条約にならってすっかり落とされています。日中国交回復の時にも周恩来は賠償請求権の放棄という大変な決断をしたわけです。しかし、私たちはこうした事実をよく知りません。若い人たちの間には「戦後賠償なんて当然したのでしょう? にもかかわらずまだ『慰安婦』とか『強制連行』とか言っている方がいけない」という意識が多いと思います。とんでもない歴史の記憶違いがまかり通っています。
こんなことが、どうしてまかり通っているか。そこには平和を自国本位の一面的な視野でとらえ、平和が問題になる場面・状況にそくして掴まえきれていなかったという限界があるからだと思います。平和とか戦争という問題は、現実には自らの存在だけで生まれてくるのではなく、相手があって初めて問題になります。加害、被害、そういう連関のなかで掴むしかない問題なのです。それを本当に掴まえきれていなかった、国民とか国家の枠に、しかも一面的に捕らわれる傾向にあったという不十分さがあったと思います。
それは、冷戦後はっきりしたかたちで挑戦されてきます。1991年に小沢一郎(現自由党党首)がこういう趣旨のことを言いました。「みなさんは戦争反対というけれども、もしいまの私たちの生活をつづけたいのだったら真面目に考えて欲しい。日本の石油は、80パーセント近くが中東からもらっている。それが、イラクが中東の石油の大部分を占めることになったらどうなるのか。そのことを考えたら、単に金を出せばすむという話しではないでしょう」――こういう趣旨のことを言いました。
これは、いまも考えなくてはならない問題があると思うんですね。
80年代の中頃、経済大国化した日本の大企業が、本格的に海外に進出を開始します。それまでの日本企業は、日本国内で、過酷な労働を労働者に強いて強い競争力を持っていたのですが、その限界が来始めたというなかで海外展開し始める。同様のことを欧米諸国は、70年代から始めていたわけですが、その中で、日本の民衆のなかで、自分たちの地位を単に国内の中で見るのではなくて、世界の中ではかなり良いという自覚がでてくる。日本では、片道一時間半もかけて通勤し、夜帰ってくるのが11時半、帰ってきた家も80平方メートルあるかないか、いわゆる「ウサギ小屋」に住んでいる人たちでも、海外出張すれば、メイドさんを一人か二人雇って、プールまであるというような生活を、いわゆる庶民レベルの人でも経験したりする。
そういう中で、だんだん、世界的な富のピラミッドの中では、自分たちはかなり高い位置にいるということを意識し始める。そして、それを維持するためには、いわゆる先進諸国、とりわけアメリカとの緊密な連携をとるということはしょうがないではないかという意識がでてくる。そういう基盤が日本企業の海外進出にともなってつくられていった。そして、それを突きつけたのが、湾岸戦争のときの小沢さんの言葉ではないかと思うわけです。
98年の春に、インドネシアでスハルト政権が倒れるときに、すでに多くの日本企業がインドネシアに進出していましたが、次にどんな政権が出てくるか分からない、出方によっては、特権的に進出できていた企業の特権がすべてなくなってしまうかもしれない。非常な危機感を日本の経済的支配層はもった。アメリカも危機感を持って、当時は、第七艦隊を派遣しました。自衛隊の派遣はもちろんできませんでした。そのことにたいする不満がはっきり出ました。そのことは、その当時から十年前のイラク―イラン戦争のときに、確か三井だったと思いますが、イランの方に進出していた。その施設全部を放棄して引き上げなければならなかったときにも、はっきりしたかたちで不満が出ていました。
こういうなかで、先ほど紹介した小沢さんの言葉に、私たちはどう答えていくのかということが問われていると思います。端的に言って、私たちは、いまの生活水準を低めていく、あるいは、いまの生活のあり方を変えても平和の方が良いのだと、そういう戦争をやらない世界の仕組みが良いのだと言いきることができるかどうか、しかも、そう言いきった上で、日本の政治、経済のあり方を変えていけるかどうか、これが突きつけられたのだろうと思います。
そういうなかで、いま九条をもう一回考えることが問われているのではないかと思います。
犠牲を少なくして最大の打撃を与える現代の戦争
三輪)
戦争に巻き込まれるのは嫌だ、九条はその「お守り」なのだから良いものだ、というだけではダメだと思います。ここで、〃巻き込まれる〃ということを違う角度から光をあてて申し上げると、前半に私は、アメリカの戦略が大きく変わったと言いました。
湾岸戦争のとき、あるいはコソボ爆撃を思い起こしてほしいのですが、コソボ爆撃のとき、こういう報道がありました。
朝、子どもの少年野球につき合って、昼、出勤して基地からB2に搭乗して大西洋をわたって爆撃して、夜帰ってくる、と。
今度のアフガン攻撃でも、一万メートルから数千メートルの上から爆弾を落とす。誘導爆弾の装置を取り付ける特殊部隊は侵入しなくてはならないから、特殊部隊員たちは、ストレスがたまるが、それさえやれば、あとは人工衛星から得た情報を管理して指令を出し、テレビゲームと同じような感覚で人殺しをやっている。こういう中で戦争をやっているわけです。
こういう状況で、日本が戦争に巻き込まれると言っても、イージス艦がただちに攻撃を受けるわけではありません。
最後の段階で地上戦になり、もしそこに自衛隊が派遣されることになっても、それは非常に限られた部分のメンバーだけになります。イラク攻撃では25万とか40万とかいわれていますが、それは、すべてが最初から投入されるわけではなくて、それはたぶん、湾岸戦争並みの爆弾を落として、全部平らにしたあとで、そして、モスクワの劇場で使ったような、特殊ガス――これは毒ガスとはいわないそうですね――を使って相手の動きを抑えておいて突入するというようなやり方をするのであって、けっして、第二次世界大戦やベトナム戦争のような、攻撃する側も大量の犠牲者をだすような戦争ではない、それがいまの非対称的で一方的殺戮をもたらす戦争の姿です。
日本の「後方支援」、有事法制でやろうとしているものは、確かに、自衛隊の防衛出動という段階まで考えますと、物資保管命令であるとか、様々な運輸、医療等の業務に従事している者にたいする業務従事命令がでてきます。
ところで、今でもアメリカは戦争をやっています。
そして、あるセクションでは戦場近くにいったりしているわけですけれども、第二次世界大戦のときにあったような全経済をふりむけ、全社会生活をそこにふりむけての総動員にはなっていません。そんなことを今日の戦争は必要としません。つまり、片方でワールド・カップをやりながらできる戦争だということです。
しかしその戦争は、第二次世界大戦に匹敵する、いやそれ以上のすさまじい殺し方ができる戦争だということです。日本が現に「後方支援」し、有事法制によって官民あげて支えようとしているのはそうした戦争だとしたなら、この際、小沢さんの言うようにいまの生活を守りたいのなら、総動員ではないのだし、損するのは自衛隊の人か、もしくは一部の人であり、「俺は自衛隊に行くほど馬鹿じゃないから」という人たちがでてくることもおおいにありえるでしょう。そこのところで、きちっと闘わないと組み込まれていく、こういう状況にあると私は思います。
産軍共同体やエネルギー資本の利害のために国民が監視され他国が暴力的に抑圧される社会を変えよう
三輪)
しめくくります。じゃあ、どうするのかということについて、なかなかきちんと申し上げることはできないのですが、そのなかで、例えば、アメリカでいま進行している事態は、本土防衛についても強化される中で、資料の五ページ目にもありますが、いわゆるパトリオット法、対テロ愛国法、一言でいうと、総監視体制がつくられようとしており、様々な自由規制が行われ始めています。
いま日本でも、Nシステムとか、予防拘禁のシステムであるとか、住民基本台帳とか、民主主義にたいする統制システムが少しずつ強められようとしています。これを一段と強めることを片方でしながら、しかし、特権的なエリート層については、例えばアメリカのカリフォルニア州では、警察官の数と同じくらいの私設の警備員が彼らのエリアをガードし、そこには部外者は立ち入ることはできないそうですが、そういう状況が日本でもでてくることになるでしょう。
少し古い言葉で言いますと、国内に、政治経済的なエリートのための「租界」ができる、民衆層が、それにたいして、いまでも新宿や丸の内などはそうですが、一日に何十回も様々な監視カメラに写され、自分の情報は筒抜けに、こういう事態が来るという問題があります。これについて僕は、それはまだ表面的な問題だと思います。
先ほど言いましたように、産軍共同体、エネルギー業界の利害という背景なしにはいまの戦争は説明できないだろうという有力な仮説があります。そして、いまあるようなエネルギー収奪構造、それから、産業の中で軍需が、日本の場合には憲法九条があるおかげで産軍複合体は大きくなってはいませんが、全就業人口の軍事関係部門はいわゆる先進国では20から30パーセントもある。戦争をしなかったら経済が成り立たない制度がつくられている。その中に民衆も巻き込まれてしまっている。
それに傾くほど、いまは中東ですが、それらの諸国にたいする暴力的な、単に抑圧的なということではなくて、暴力をともなった抑圧を行わないと成り立たなくなっている。
だとするならば、そういうあり方にのっかって、普通に日本に生きている民衆の生活も平和で幸せなものにずーっとなっていくのか、これは、極めて危ないと思います。そうはならない道を私たちは考え、模索するということをする中で、九条についてもどういう意味があるのかを考えていく、こういうことが必要ではないかと思うわけです。
十分ではありませんが、あとは、討論の中でお話ししたいと思います。(拍手)
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